みやこと、カミュと、シーシュポスの神話

 

貴女のふるさとの桜はそろそろ満開ですね。

みやこさん、おめでとう。

生クリームがだめなあなただから、今回は和菓子です。

 

僕よりちょっと、ちょっと・ちょっと、お姉さんです。

 

これからは穏やかな老後・・じゃなかった、人生を過ごしてください。

 

貴女を見ていると、シーシュポスの神話を思い出すのです。

 

人のうちで最も聡明で慎重なシーシュポスに課せられた責め苦。

それは休み無く岩を山頂まで運び上げる仕事。

しかし運び上げられたその岩は、それ自体の重みで再び麓まで転がり落ちるのです。

 

 

「カミュ」の言葉を借りて、貴女に贈ります。

 

片足を楔のように送ってその巨魁を支え、両の腕を伸ばし再び押し始める。

両の手のまったく人間的な確実さ。

天のない空間と深さの無い時間とによって測られる長い努力のはて。

彼は再び平原へと降りてゆく。

重い、しかし乱れぬ足取りで、いつ終わりになるか、彼自身では少しも知らぬ責め苦へと。

確実に繰り返し舞い戻るこの時間。

彼が山頂を離れ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、彼は自分の運命よりたち勝っている。

希望が、岩を押し上げるその一歩ごとに彼を支えているとすれば、苦痛などどこにも無い。

彼を苦しめたに違いない明徹な視力が、同時に、彼の勝利を完璧なものたらしめる。

 

侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのだ。

 

下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもある。

幸福の呼びかけがあまりに激しく行われるとき、悲哀が心の中に湧き上がる。

しかし、人を押しつぶす真理は認識されることによって滅びる。

幸福と不条理とは、同じ一つの大地から生まれた二人の息子だ。

この二人は引き離すことができない。

 

シーシュポスの沈黙の喜びの一切がここにある。

彼の運命は彼の手に属しているのだ。

 

不条理な人間は、自らの責苦を凝視するとき、一切の偶像を沈黙させる。

人にはそれぞれの運命があるにしても、人を超えた宿命などありはしない。

不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。

人が自分の生へと振り向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは自分の岩の方へと戻りながら、

あの相互につながりのない一連の行動が、彼自身の運命となるのを、

彼によって創りだされ、彼の記憶のまなざしのもとに一つに結びつき、

やがては彼によって封印されるであろう運命へと変わるのを凝視しているのだ。

 

 

彼は常に歩み続ける。岩はまたも転がっていく。

 

 

 

今やシーシュポスは幸福なのだと想わねばならない。